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    Happyルール|世界初の女性ニャティティ奏者・アニャンゴ

Happyルール|世界初の女性ニャティティ奏者・アニャンゴ

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アフリカの音楽に魅了され、単身ケニア奥地の村で修業し、現地でも限られた男性だけに演奏が許されているニャティティの世界初の女性奏者となったアニャンゴさん。2009年には、News Week日本版で「世界が尊敬する日本人100人」にも選出されています。

異国の地でニャティティの修業をし、世界初の女性奏者となったアニャンゴさんに「Happyルール」を伺いました。

アニャンゴのバックグラウンド

Happy Avenue

―はじめまして、バックグラウンドを教えてください

アニャンゴというのは、ニャティティの師匠がつけてくれた名前で、「午前中に生まれた女の子」という意味です。私自身は東京生まれ、東京育ちの日本人です。ニャティティというのは、ケニアのルオーの人たちの伝統的な弦楽器です。

さて、私が小さい頃は、ピアノと、水泳、それからバレーを習っていました。ピアノが最も長く続いて、4歳から17歳ぐらいまで。バレーは大好きで続けたかったのですが、たぶん、小学校4年生の頃だったと思うのですが、靭帯(じんたい)の大ケガをしてしまい、泣く泣くやめることになりました。

私は覚えていないのですが、母によると「0歳の頃から結構、社交的だった」らしいです。社交的で、人懐こく、小さい頃から人前に立っても物怖じしない性格だったようです。小さな頃からダンスも音楽も好きで、行く着くところがまさか「アフリカンミュージック」だとは思いもしませんでしたが、歌ったり、踊ったり、演奏したりすることが好きなお転婆な女の子だったんだと思います。

中学から私立のミッション系の中高一貫校に入学しました。自由な校風で、帰国子女も多かったので「外の世界」に目をむけやすい土壌があったのかもしれません。高等部の時、夏休みに、夏休み1ヶ月間を使って、海外にホームステイしたこともありました。

中等部・高等部の頃はいわゆるバンド少女でした。といっても最初は、パンクロックだったんですけど(笑)高等部の2年生の頃に将来プロのミュージシャンになることを意識し始めるようになりました。ちょうどこの頃から、ジャズやブルース、ゴスペルなどのブラックミュージックに興味を持つようになりました。

ブラックミュージックの本場といえば、その当時は、ニューヨークかロンドンでした。そして、大学1年生の時、ニューヨークに音楽修業をしに行くことを決意しました。

2001年9月11日、私を乗せた飛行機が後30分ほどでニューヨークに到着しようとした時、あの「アメリカ同時多発テロ事件」が発生したのです。飛行機はそのままUターン。一年半後再度、ニューヨークを目指すも、今度は「イラク戦争」の影響で帰国を余儀なくされました。

挫折を感じながら帰国した日本で出会ったのがアフリカの音楽でした。ニューヨークでの音楽修業は叶いませんでしたが、もし、アメリカで音楽の修業をしていたら、今のアニャンゴはいないと思います。

アニャンゴのルーツとは?

―ブラックミュージックがもともと好きだったということですが、家族の影響などはあったのでしょうか?

私の父は小学校の先生、母は大学で教えていて、二人とも音楽とは直接関わりがあったわけではありませんでしたが、父方の祖父は江戸の伝統芸能「活惚れ(かっぽれ)」の芸人でした。祖父は、父が若い時に亡くなったので、私は会ったことがありません。でも、父は今でも「おじいちゃんが生きてたら私がニャティティ奏者になったことを一番喜んでくれただろう」と言います。もしかすると芸人の血が、私にも流れているかもしれないです。

高校時代は西アフリカの太鼓「ジャンベ」をやってみたりして、なんとなく民族音楽が好きでした。アフリカにこだわっていたわけではなく、民族音楽といえば「ジャンベ」だと考えたんです。ちょうどその頃、流行りだしたというのもあったかと思います。

―心の奥底には「アフリカ音楽」があったのかもしれませんね

おそらく無意識だとは思うのですが、「ルーツ音楽」を求めていたんだと思います。太鼓も音楽の起源(ルーツ)の一つですし。

ファッションも、高円寺や下北沢に通うほど「古着」が好きでした。メインストリームだった渋谷や原宿で流行っていたギャルより、サブカルチャーに惹かれていました。当時、ミニスカートやルーズソックスが全盛期の中で、一人だけスカートが長かったり(笑)

―「人と違う場所に行きたい」「大衆に紛れたくない」という感覚はあったのでしょうか

それはあったかもしれませんね。ライブハウスだけでなく、全身白塗りで踊る「暗黒舞踏(Butoh)」にもしばらく通っていた時期があります。相当変わっていますよね(笑)。もっとも、最近ではフランスでこの「暗黒舞踏」が大ブームで、発祥した日本よりも、パリで芸術として受け入れられているようです。

アフリカ音楽との奇跡的な出会い

―アフリカ音楽と出会う直前は、落ち込んでいたそうですね。どのような落ち込みだったのでしょうか。

あの「9.11 アメリカ同時多発テロ事件」の影響で夢だったアメリカでの音楽修業も叶わず、しかも、帰国後すぐに高校時代から5年間も一緒にやっていたバンドのメンバーまで脱退し、音楽へのあらゆる道が断たれたような気がして、あの頃は、失意のどん底のような状況でした。

―アフリカ音楽との出会いはどのような感覚だったのでしょうか

失意の私を心配してくれた友人の誘いで、参加した都内のイベントで出会ったのが東アフリカ音楽でした。独特のリズムに、ただただ圧倒されました。

ライブ直前のリハーサルから私は参加したのですが、バンドリーダーから、「この曲とこの曲を覚えろ」と言われて急遽(きゅうきょ)、出演することになりました。これは後から聞いた話ですが、女性ボーカルを探していたそうなんです。私も私で「とりあえずやってみよう!」と、その日からバンドに参加することになりました。

―ご友人の策略だったのかもしれませんね。

バンドのリーダーは、とても個性的で強烈な人でした。ただ、太鼓の腕は超天才。絶対に他では習えないと直感で思ったので、とりあえず一年はやってみようと心に決めました。結局、それがご縁でこうして今の私があるわけですから、その友人には感謝しています。

―習っているうちに、やはり「本場アフリカに行きたい」という気持ちが高まっていったのでしょうか。

そうですね、東アフリカ、とりわけケニアには絶対に行かなきゃと思いました。

―周囲の反応はいかがでしたか?

当然、周りは絶対に反対ですよね。私は一人娘ですし。特に父親が猛反対をしていました。

父には小さい頃から、「好きなことをやりなさい。好きなことだったら、苦労を苦労と思わないから。」と言われ続けていたんですね。ところが、その父に「好きなことがやっと見つかった、ケニアで音楽修業をしたい」と言ったところ、「ダメだ!」「絶対ダメだ!」。私は「言ってること違うじゃん!」と正直思いました(笑)

―当時、アフリカは怖いというイメージはなかったのでしょうか?

アフリカ音楽を教えてくれたバンドリーダーを通じて、アフリカのことを聞いていましたので、怖いというイメージはあまりありませんでした。でも、日本ではアフリカの情報はとても少なくて、今でも、アフリカと聞くと戦争・貧困・病気といったイメージがあるかもしれません。あるいは、マサイ族がいる、自然が豊かで、ライオンやキリンなどの野生動物がたくさんいるくらいでしょう。それも事実ですけど、それはアフリカのごく僅かな一面に過ぎない。世界で最も経済的に発展しつつあるエリアはアフリカですし、例えば、ケニアには40を超える民族が暮らしているけれども、それぞれの民族ごとに豊かな民族の文化を持っている。ニャティティはその40を超える民族の一つ、ルオー民族の伝統的弦楽器です。

バンドリーダーからアフリカの話を聞くたびに、自分の目で見るべきだという気持ちが大きくなり、怖いイメージは行く直前にはなくなっていきました。

―どのように周囲を説得したのでしょうか?

説得できないので、家出状態で修業に旅立ちました。最初の修業は1ヶ月で帰国、2回目は2週間、そして3回目はいよいよ長期で挑みました。その時も父は大反対でしたので、手紙を残して出発することにしました。

―反対に負けてしまう人もいますが、押し切ってやれた理由とは……?

もちろん、いろんな人のアドバイスを聞くことは大切ですが、結局、自分の人生ですから最終判断は自分でするしかない。誰かのせいにしても、その人は責任をとってくれない。自分で決めた以上、失敗しても成功しても、その結果は引き受ける。それが、一番悔いが残らない方法だなと思っています。

異国の地でのニャティティ修業

―修業はどのようなものだったのでしょうか。

ケニアの首都ナイロビは、東アフリカの出入り口として、高層ビルが建ち並ぶアフリカでも最も発展しつつある大都市の一つです。ニャティティ発祥の村にニャティティの大名人がいると聞いて、その首都ナイロビからバスに揺られて13時間、さらに獣道を歩いて3時間のところにある小さな村へと向かいました。

その村に住むニャティティの大名人は身長が190㎝近くある眼光鋭い長老でした。大名人の名前は、オクム・オレンゴといいます。彼は、今年2月に亡くなったアユブ・オガダの師匠です。ちなみに、アユブ・オガダは日本でも大ヒットした映画「ナイロビの蜂」の音楽を担当した最も有名なアフリカ出身のミュージシャンの一人です。

ところがオクム名人には、英語やスワヒリ語では一切通じません。覚えたばかりの片言のルオー語で、「日本からやってきました。この楽器を教えてください」とお願いしたのですが、「だめだ」とすぐに断られてしまいました。

というのも、元々ニャティティはルオー民族の選ばれた男性だけが演奏することを許された神聖な楽器だったのです。私は外国人で、しかも女性だったのです。しかし、私もニャティティを習うために、家出状態でケニアに行きましたから、簡単にあきらめて日本に帰る訳にもいきません。

次の日もお願いに行きましたが「ダメだ」。その次の日もやっぱり「ダメだ」。それでも、毎日通い続けてお願いに行ったところ「そんなに言うのであれば、この村に住んでみなさい。ただし、楽器を教えるかは別だ。あなたが正しい心の持ち主かを確かめてからだ……」と名人に言ってもらうことができ、まずは村に住むことだけは認めてもらえました。

電気も水道もないケニアの奥地のそのまた奥地の村での生活が始まりました。片道30分かけて水汲み、1時間かけて拾ってきた薪で朝食のチャイを作ります。朝食が終わったら畑仕事、その後は大師匠に連れられて近所の村々へ地酒を飲みに繰り出す。その合間合間に、近所の子どもとルオー語の勉強とニャティティの自主練習、名人は私の前を素通りするだけで、教えてくれません。そんな日々が2ヶ月半続きました。

そんなある日、名人が自主練習している私の楽器を取り上げ「ティンリリ ティリリン ティリリンティン」と演奏してくれました。大師匠は、楽器を私の膝に置くと「真似してみなさい」と一言。突然、レッスンがスタートしたのです。

―声にならない喜びがあったのではないでしょうか

しかし、喜んでいる暇はありませんでした。待っていたのは、200%集中してもついていけないほど凄まじい稽古でした。観るのと実際に演奏するのとでは大違いで、ニャティティとは、弦を弾いて音を奏でながら、足には鉄の鈴と輪っかをつけてパーカッションを鳴らし、ルオー語の歌をうたう一人三役の難しい楽器です。

だけども、もしこれでできなければ、名人に「あなたはニャティティに選ばれた人ではない、日本に帰りなさい」と言われるのはわかっていました。

しかも、「今日は牛が病気になったからニャティティの稽古はしない」「最近、雨が降っていない。畑の様子が気がかりだ」しまいには「ニャティティの精霊が降りてこないから、ニャティティを触ってはいけない」と、稽古も週に2回もあればいいほどでした。

音楽教室のように、手取り足取り教えてくれるなんて大間違い。伝統芸能を学ぶというのはこう言うこと。それで盗み取れないならば、学ぶ資格はないと言う厳しい世界ですね、芸事は。

―名人が教えてくれるようになったのは、どのような心の変化だったのでしょうか。

それは全くわからないですね、そう言うことを話してくれる人では全くなかったので。私も名人に尋ねることはしませんでした。師匠と弟子の関係というのは、国や民族が違ってもそういうものじゃないでしょうか。

―もしかすると、ニャティティの演奏方法だけでなくルオー民族の文化ごと受け入れたいというアニャンゴさんの気持ちが伝わったのでしょうね。東京に住んでた女性が 都会に比べて厳しい生活環境に飛び込んだのは、やはり“何か”があったからでしょうか。

当然、東京の生活に比べて、不便か不便じゃないかというと不便。でも、それは不幸じゃない。例え不便な環境であっても、知恵を絞って生活している姿から、沢山のことを学ばせてもらいました。

携帯電話の充電をするために、2時間歩いて半日だけ充電して帰ってくる不便さ。そして「マラリア」の病気にも何度もなるのですが、それは覚悟の上でした。

―温室で育っている私にとっては、信じられないです(笑)生活のギャップに耐えられないということは?

女の人の方が強いみたいですよ。以前、小説家の森村誠一さんと対談させていただいたとき、「世界で通用するには『何でも食べられる』『どこでも眠れる』『どこでも出せる』の3つが必要だ」というお話を伺ったことがあります。「私、3つともできます」と即座にお返事したのですが、森村さんによると、この3つは「バイタリティー=生命力」そのものなのだそうです。

雨季がくると、貴重なタンパク源の虫(羽アリ)も平気で食べてました。水は「アフリカでは、生水・雨水は絶対に飲んじゃいけない」と『地球の歩き方』という本にも書いているんですが、全然大丈夫でした。ちなみに書いたの私なんですけど(笑)。チフスになってしまう可能性もあるので運がよかったのだとは思いますが、他の人よりも少しだけお腹が強いというのはラッキーでした。

周りにはアフリカに行って痩せこけて日本に帰ってくると思われていましたが、6kg太って帰国したんです(笑)。それくらい環境があっていたんだと思います。日本に帰ると痩せて、というより普通に戻るのですが、再びケニアに行くと「なんでせっかく肥えたのに痩せるんだ」とママに怒られるんです。アフリカはふくよかであればあるほどモテます。それこそが「幸せの象徴」「豊かさの象徴」だから。痩せると病気になったんじゃないかと怒られるんです。

村の朝、起きると横にニワトリや猫が寝ていますが、それも慣れます。お手洗いもなく、やぶの中でも大丈夫。ただマラリアだけ注意して。夜は牛泥棒が来たり、蛇がいたりと危ないので、マイナタ(自分専用の鉈)を持っていました。

―マイナタ、牛泥棒……初めての単語ばかりです(笑)

たしかに、そうですよね(笑)

世界初の女性ニャティティ奏者が誕生

2005年:Nyatitiの卒業試験

―「これは乗り越えた」「しんどかった」ということは?

ニャティティをまがりなりにも習得して、免許皆伝をもらったことです。

卒業儀式の時も朝から緊張しすぎて、感動したという余韻にも浸れないほど。その日は「やるだけはやろう」という気持ちでした。ニャティティの名人、長老や村々から集まり、多くの人々に見守られながらニャティティを演奏しました。大爆笑に次ぐ大爆笑。

―「大爆笑」ですか(笑)?

もともと、ニャティティは日本の漫談や落語のような要素も持っています。時には滑稽な歌詞だったり、風刺の含んだ歌詞だったり、その場に応じて歌詞だけでなく、リズムや時にはメロディを変化させたりします。ルオー語の一言一言を歌うたびに、「ありえない」という感じで大爆笑なんですよ。

―逆の立場でいうと、アフリカの人が琵琶や三味線、琴をプロレベルで演奏しているようなものですよね。

想像を越える演奏で、笑いになってしまったんでしょうね。最後は、長老も子どもも、ママたちもみんな総立ちになって踊ってくれたのです。私のニャティティがルオーの人たちに通じているという手応えが感じられて感激しました。

―免許皆伝はどのような儀式が行われたのでしょうか

師匠の稽古が始まってから半年くらい経ったある日、アニャンゴを伝統的なニャティティ奏者として認めても良いかを審査する儀式が行われることが決まりました。審査をパスすれば、プロとしてお金をもらってやってもいい。パス出来なければ、お金をもらってやってはいけないということでした。ただプロになるかだけではなく、初めての外国人女性初のニャティティ奏者となるわけですから、そのタブーを破るに値するかを含む儀式だったんです。20分間6曲の演奏で、ケニアの人々はみな大爆笑、そして踊ってくれて晴れて免許皆伝となりました。

卒業試験の後、師匠に言われたのが「アニャンゴ、この先は遊びじゃないぞ。あなたは正真正銘の女性初のニャティティ奏者になったのだ。あなたが世界中に出かけて行って、この楽器を奏でて来なさい。私の行けない場所まで行って、この楽器を奏でて来なさい。」という言葉と共に、師匠は字がかけないので拇印が押された免許皆伝のサーティフィケーション(証明書)を授かりました。

大師匠が行けないところまで

ケニア5万人ライブ

―免許皆伝を授かった後の生活はどのようなものだったのでしょうか

儀式は、村に暮らし初めて9ヶ月、習い始めて半年程たっていました。免許皆伝を授かった後は、2ヶ月かけてケニア中のお世話になった人にお礼をして、日本に帰国しました。このように、ナイロビの下準備、村に暮らした期間などを経て、トータル一年間の修業が終わりました。

―もともと未来が見えないまま飛び込み、何が起きるかわからなかったんですよね。

そうですね、全く先はわからない。でも、本能で「今ここでアフリカに行かなければ後悔する」と思ったんです。本物のミュージシャン、本物の歌い手になりたいのであれば、ここで行かなければならない。そう思ったので、誰に何を反対されても家出する覚悟で行ってしまったんです。

―日本、世界に広げる使命を託されたと思いますが、ヴィジョンやプランは見えていたのでしょうか?

一番は「私だけの夢じゃなくなった」と感じていました。

当時は、女性として初めてのニャティティのプロ奏者になり、師匠の思いやケニアの人たちの想いを乗せている責任を背負ったと感じ始めました。自分の演奏のクオリティが現地の人々のクオリティと思われますし、とにかく絶対プロ奏者で長く活動したいと第一に思いました。

その過程で、フジロック(FUJI ROCK FESTIVAL)、海外ツアー、アフリカの“師匠が行けないところまで”足を運んで演奏したのです。

―アニャンゴさんがいなかったら、生でニャティティを聞く機会はなかったでしょうね。

アフリカ音楽は全てのルーツ

フランス・ストラスブールでのライブ

―帰国後の展開について聞かせてください

2006年、日本に帰国して演奏を開始。最初は「ニャティティって何?」「アニャンゴって誰?」「アフリカ音楽ってボランティアでしょ?」という所からのスタートです。さらに、日本のアフリカに対するイメージは「かわいそう」「慈善事業のボランティア」というものでした。

小さなレストランやバーで地道な活動をしていましたが、割と早い段階で国連や外務省主催のフェスティバルなどでの出演が決まり、だんだんと出演料をいただいてセミプロのような活動をして行きました。

その後、自分でレーベルを立ち上げ、ディストリビューター(流通業者)と契約をして、タワーレコードやHMV、amazonでリリースしたのが、2009年です。

―アフリカではプロでも、日本ではイチからのスタートという感覚だったんですね

そうですね。ニャティティって何?アニャンゴって誰?からのスタートでした。当時は、アフリカといえば、「自然がいっぱい」「かわいそう」程度の認識しかない方が 少なくなかったですし、アフリカ音楽に興味を持っている方でもアフリカ音楽といえば、西アフリカの音楽が中心で、東アフリカにも素晴らしい音楽があることは、ほとんど知られていませんでした。

ニャティティを習得する時に、外国人だから、女性だから、水汲みや薪拾い、マラリアになった時も、ルオー語を学んでからスワヒリ語を覚える必要があった時も……どれか一つでも諦めていたら今のアニャンゴはいない。不可能だと思った時も、どの時も諦めなかったから今のアニャンゴがあるなと思います。

アフリカには豊かな文化があること、そして、諦めさえしなければ、どんなことにも可能性がある。どんなに四面楚歌でも、絶対無理でしょと思われる状況だとしても可能性があるということを、日本の若い人たちに伝えていきたいなと思っています。

―今の若者は諦めちゃうことが多いかもしれません。検索して正解を見つけていくことも……

それは手堅いですね(笑)

―「人がやっていないことはできないと思ってしまう」という若者も増えてきていると思います。

人がやっていないことだったとしても全然できますよ。誰に悪いことしている訳でもなく、迷惑をかけているわけではないですから。

―女性がニャティティ奏者になるということで、批判も多かったのではないでしょうか?

アフリカでも多くの人が応援してくれたのですが、一方で、「伝統を壊すことになる」「外国人に搾取されている」という批判があったことも事実です。でも、プロのニャティティ奏者としての活動を10年続けていくうちに私を批判していた方も変わっていきました。当時、私を批判していたケニアの有名なミュージシャンも今では、私の心強い応援団です、私が一昨年ケニアでリリースしたベストアルバム作成も手伝ってくれました。

日本でも「アフリカ関連の仕事はボランティアでやるべきだ」と主張する方々がいます。ボランティアでの活動は、もちろん大切です。同時にプロの演奏家だからこそできる仕事もあります。お互いにそれぞれの活動をリスペクトしていけたらいいなと思います。

―「批判に対して負けそうになったことはありませんか?」と聞こうと思いましたが、修業を経て夢を託された強さがあったのでしょうね。

そうですね。私の師匠オクム・オレンゴは6年前、天国に召されましたが、名人中の名人、ニャティティの大名人でした。彼の訃報は、ケニアの新聞の一面を飾ったほどでした。彼が決めたことは絶対でした。私が世界初の女性ニャティティ奏者になれたのも、あの大名人の唯一の内弟子(住み込みの弟子)になれたからだと今になって 思います。音楽家というよりも、哲学者という風貌の方でした。彼の教えは、今もなお私の人生の指針です。

―今後の活動においても、心の支えになっているんですね。

今後のアニャンゴについて

2013年ドイツ

究極は「音楽で世界平和」

―現在、夢を語るとするならば……

「私の行けないところに行って、この楽器を奏でてきなさい」。私にニャティティの免許皆伝の認定書を手渡した後、師匠が私に残した言葉です。師匠の「行けないところ」。その時は、地理的な意味だと理解したのですが、ルオーの人たちは、一つの言葉に二重三重のメッセージを込めます。時には、四重五重の意味を含む場合もあります。

今、東アフリカや日本はもとより、フランス、イタリア、ドイツ、アメリカ、ミャンマーなどでもニャティティの演奏活動をしています。東アフリカには豊か音楽があることを多くの人に知っていただければ嬉しいです。

オクム師匠は「アニャンゴ、ニャティティ奏者の音楽は音楽であるばかりではない、心の薬である」と言うんですよ。例えば、何かいざこざがあって、人と人と揉めごとがあって、ギスギスした場があって……そのような場所でもニャティティを演奏すれば、たちまちに場がほぐれ、笑顔が生まれ、心が解きほぐされた交流が始まり、最後はみんな踊って仲良くなってしまう。それが、ニャティティの持つ力です。

師匠の言葉「行けないところ」もう一つの意味

―アルバムの音源を聞かせていただきましたが、アフリカ音楽をベースに新しいジャンルへの挑戦を感じました。

ニャティティに限らず、すべての伝統は創造し続けなければ淘汰される運命にあります。ニャティティの新しい境地にどこまで行けるかが、師匠から私に託された使命だと思っています。もちろんルーツ、伝統は大切ですし、古典は古典で勉強し続けなければならないのですが、クリエーションの高みに行く挑戦は常に続けていきたいと思います。

音楽のジャンルは、ボーダレスに、ジャズ、ロックとの融合も果たしています。それから、伝統楽器ニャティティにピックアップマイクやギターアンプを繋げてバリバリのエレキサウンドにするなど、何千人の前で演奏をするために、楽器自体の改良も行なっています。スタンディングで弾けるようにするなど、まさにトライアンドエラー中ですね。

―今までのバンド経験も、ここで繋がってきますよね

そうですね。言葉もルオー語だけではなく、いろんな言語で歌ってみたりもしています。

―数年後はギターのように、多くの人がニャティティを演奏する景色が見れるかもしれませんね。

そうですね、見てみたいですね。過去にも葉加瀬太郎さんをはじめ様々なミュージシャンの方々とコラボをしてきましたが、もっと積極的にやっていきたいです。

―ニャティティ教室はやられているのでしょうか?

日本に帰国した直後は盛んにやっていました。現在は、演奏活動が中心となっていて、レコーディングやアルバム制作、ライブを行なっています。今後は、音楽教室も時間を見つけてやっていきたいです。

―継承者が増えて、楽器に触れる機会が増えると素敵だなと思います。

そうですね、可能な限りやっていきたいです。

子育ては一番のクリエーション

―音楽以外で挑戦しているものはありますか?

ちょうど一昨年に子どもが生まれました。子育ては一番のクリエーションだと思っていますので、面白みや喜びを感じていますね。もともと備わっている生命力や情熱をいかに親が邪魔しないかを念頭に頑張っています。とても音楽が好きなので、ニャティティを引き出すかもしれないですね。

Happyルール|アニャンゴ

Happy Avenue

―最後に「幸せになるための秘訣 = Happyルール」を教えてください。

私のHappyルールは「しなやかに逞しく生きて行こう」です。

ケニアのルオーに「Weche N g’eny(ウェイチェンゲイン)」という言葉があります。ニャティティの曲のタイトルにもなっているのですが、直訳すると「問題だらけ」という意味です。ルオー語の“weche”(ウェイチェ)は「話題」、“ng’eny”(ンゲイン)は「たくさんの」という意味です。だから、“Weche ng’eny” は直訳すると「話題がいっぱい」になります。しかし、先ほど紹介しましたように、ルオーの人たちは、同じ言葉を二重・三重の意味で使う文化を持っています。「話題がいっぱい」の2つ目の意味は、「問題がいっぱい」。そこからさらに、「どんな状況だったとしても、折り合いをつけてしなやかに逞しく生きて行こう」という意味になります。

ウェイチェ・ンゲイン(問題がいっぱい)だと思いつつも、その本当の意味は『“問題だらけ”の世の中だけど、ポジティブに捉え直して、よりよく生きていこうよ』というメッセージが込められています。私の Happy ルールは、この言葉に尽きる気がします。

アニャンゴ/Anyango

Happy Avenue

東京生まれ。アフリカの音楽に魅了され、単身ケニア奥地の村で修業し、現地でも限られた男性だけに演奏が許されているニャティティの世界初の女性奏者となる。日本国内だけでなく、アフリカ、ヨーロッパなどでも広く演奏活動を行っている。

2009年News Week日本版で「世界が尊敬する日本人100人」に選出される。2010年8月、日本で一番大きな野外ロックフェスティバルであるFUJI ROCKに出演し、ワールドミュージック部門のベストアクトに選ばれる。

2011年11月、テレビ朝日「徹子の部屋」に出演。2012年8月、『アニャンゴの新夢をつかむ法則』を出版。2013年、ドイツ・イタリア・フランス・ケニア・アメリカにてワールドツアー。10月、ミニアルバム 『ALEGO』~ニャティティの故郷~をリリース。テレビ東京「CrossRoad」に出演。12月、『翼はニャティティ舞台は地球』(学芸みらい社)を出版。2014年9月、5thアルバム『Kilimanjaro』をリリース。2015年8月、戦後70年に東京・広島・長崎で開催された「国連合唱団 平和と希望のコンサート」にゲスト出演。10月、6thアルバム『Savanna』をリリース。2016年DVD『Anyango Live in Tokyo』リリース。ケニアで初のベスト盤をリリース。2017年1月、毎日放送(TBS系列)新春特番「2017年実はこの人…世界オンリー1」に出演、『アニャンゴ・ケニア・ベストを日本でもリリース。11月、日本とケニアの10年に渡る文化親善活動に対し、東久邇宮文化褒賞受賞。2018年、NHKラジオスワヒリにレギュラー出演中。日本ケニア文化親善大使。Anyangoとはルオ語で、「午前中に生まれた女の子」という意味。

Website:anyango.com

ニャティティとは

ニャティティ(Nyatiti)とは、ケニア・ルオの伝統弦楽器。もともとルオの選ばれた男性だけが演奏することを許された神聖な楽器だった。右足首につけている鉄の鈴は「ガラ」という。右足親指にはめている鉄の輪は「オドゥオンゴ」という。ガラを鳴らし、オドゥオンゴをニャティティの木のへりにゴツゴツとあてて、リズムを生み出す。ヴォーカルとストリングス(弦楽器)とパーカッション(打楽器)の三つの動作を同時に行うのが特徴的である。弦は8本の釣り糸(ナイロン弦)でできており、太さは三種類。昔は弦にメス牛のアキレス腱を使っていたそうだ。ビーンビーンと長く、渋く響く音の秘密はサワリの部分。細い竹のようなもの(ヨシ)2本と木片が蜜蝋(みつろう)で止めてある。

アニャンゴ新刊『ニャティティの歌』

「ニャティティ」というケニアの伝統楽器で世界初の女性奏者となった著者アニャンゴ。しなやかで前向きなケニアの人たちとの交流から知った人生の素晴らしさをニャティティの調べとともに綴った8つの歌とエッセイ集。

著者:アニャンゴ著
定価:1,500円(税別)
出版社:学芸みらい社
ISBN:978-4908637940

ライブ出演情報

2019.5.14 Moon Track vol.9 出演決定

  • 日時:2019年5月14日(火)Open 19:00 / Start 19:30
  • 場所:三軒茶屋 グレープフルーツムーン
  • チケット:前売 3,000円 / 当日 3,500円(共に+1ドリンク)
  • 出演:Anyango / 春日博文
  • ご予約方法:三軒茶屋 グレープフルーツムーンの予約フォームにてお申し込みください。
  • Website:http://grapefruit-moon.com/

その他ライブ出演情報の詳細はこちらanyango.com

編集後記

アニャンゴさんは、アフリカで修業してきたとは思えないほど、とても柔らかい雰囲気で迎えてくださいました。アフリカは、海外旅行をするにもアメリカやヨーロッパなどに比べるとまだまだ遠い存在で、旅行先の候補にも入りづらい。日本にある少ない情報では、治安が悪い・怖い・貧しい……というマイナスイメージが先行してしまいます。でも、アニャンゴさんにお話を伺って、アフリカの「力強い生命力」や人々の「ルーツ」を感じて、自分の世界の狭さを痛感させられました。アフリカには、日本に住む都会人が、いつしかなくした本当の意味での「豊かさ」があると。今回のインタビューは大切なことを教えていただいた気がします、本当にありがとうございました。

編集部より出演者募集のお知らせ

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